堀作蔵
よもやま話「南陽寺境内の長寿椿と記念碑」 http://www.nanyouji.net
堀作蔵が練兵館の塾頭であったと見つけたので年代とか調べていたら、なんか変なんです。
これによると、作蔵は丹波園部藩の力士で、藩士に角力を教えるため召し抱えられた
作蔵の日記のようなものが引用されていました。
文久三年16才、江戸へ出て斎藤塾で修行、その時は二代目弥九郎であった。
数年後塾頭となり、20才で京都へ出るまで務めた。
その後岩倉具視公の供奉の任についた。
文久三年(1863)から逆算すると、弘化四年(1847)生まれ。
慶応三年(1867)に20才。
練兵館歴代塾頭は原保太郎までわかっている。
原がいつまで塾頭だったか調べてみたら、園部藩原官次の三男、弘化四年(1847)生まれ、慶応三年(1867)岩倉具視の食客となる。
と、ウィキペディア、その他に書かれていた。
もしかして、堀作蔵が原官次の養子になったのかと目を皿のようにしてウィキペディア、その他を読んだけれど、そういうことは一切書いていないのでありました。
でも同一人物の可能性99%。
上記の堀作蔵の日記には、自分のことを「余は…」と書いている。
当時の偉い人って「余は」って言ってるよね、木戸孝允もそうだったね。
ということはやはり、堀作蔵=原保太郎 か⁉
堀作蔵という力士についてもデータが出てきませんわ。
原保太郎の日記のようなものも探し出すのに時間かかりそう。あるはず。
今日はここまでじゃ。







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